ケーシー松原の現代コミュニケーション論

 今回はいわゆるコミュニケーションについて述べてみたいと思います。なぜなら今ほど人と人とのコミュニケーションが大切な時はなく、にも拘らずそれがないがしろにされている時代もないからです。私が概観する所、多くの日本人は人間関係を作る事を空気と同じようにタダだと考えており、二束三文の金すら出し惜しみます。そのくせ例えばいわゆるブランド物に手放しで飛びつき、大金をはたく事を意に返しません。本当は人間関係の構築にこそ最も優先すべき所、せいぜい四、五百円のコンビニ弁当代位いにしか見積もっていないのが実情なのですから、コミュニケーションの大切さなど知る由もありません。つまりは人間一人一人の価値が余りにも低く、物以下に他人を扱っている自分もまた同様なのだということに気付かないのです。ところで本論に入る前に、言葉そのものについて少し考えて見ましょう。昔日本には「言霊(ことだま)信仰」と言うものがあり、美しくて良い言葉を使うと幸いが訪れ、悪しき言葉を使うと災いが来るというものです。また真言や陀羅尼を始めとする各種の呪文が唱えられ、一方文学的には和歌や俳句と言う形で人との気持ちを通じ合わせたものでした。また知識階級では漢詩漢文が必須の素養とされました。その上で大き意味での情報交換が行われていたのです。映画「君の名は」で一世を風靡したフランス在住の大女優岸恵子女史は、「言葉が磨かれているという事は精神が磨かれているという事でしょう。」と言われました。自国語を大切にし、サロンやアカデミーフランセーズで会話や言葉そのものを磨き抜いてきた国からの発信だけに、より説得力の有るものです。そういった洗練度は別としても、単に手持ちのボキャブラリー(語彙)が増えるだけでも発言に与える影響は大きなものが有ります。それらを縦横に組み合わせる事により、思考は明晰になり、幅広く豊かな表現が可能になるからです。

さて本論に入りたいと思いますが、一つにはこの方面に関して明治以降の日本の近代化とコミュニケーションそのものの有り方と言う問題がなお横たわっています。つまり明治以降の日本の近代化の過程で積み残してしまったものの存在です。福沢諭吉は「封建制度は親の敵で御座る。」と言いました。まず、近代化にとって世俗を離れる傾向の強い仏教についてはその不適応性は明らかなのですが、社会全体の近代化に指針を与えるような形で既成仏教を改革する事は、終に行われなかったのです。次に儒教の倫理も近代化にそぐわない一面を持っています。同じく福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。」と言いましたが、儒教はもともと君臣・夫子・夫婦と言う人間関係を上下の秩序として捉え原則として発展のない閉じた共同社会の内部での身分秩序を前提にしていて四民平等の発想とはなじまないものです。さらに国学思想も国家社会の仕組みを人間の理性によって再組織しようとする合理性にかけ、やがて非合理的な国粋主義へ傾いていく素質を持っていました。私が言いたいのは以上のようなものに代表される前近代的な遺物が今も残存し、さまざまな風俗と言う形を取って人々の生活に関わり、人が人を平等に尊重すべしとする普遍的なヒューマニズムの理想に抵触し、日本と言う個別的な条件によってコミュニケーションそのものが歪曲されその本来の働きが弱められていると言う事です。少し卑近な例を挙げてみますと、古くは柳田国男の「明治大正史・世相編」、新しくは井上忠治の「まなざしの人間関係」に有るとおり、日本人はお互いに視線を避けあう習慣を持っています。それは具体的には「お辞儀」と言う形式にも当てはまります。お辞儀とはイコール目をあわさないと言う事の一つの表れなのです。そしていわゆる目上の者と目下の者が出合った場合、目下のものだけがお辞儀をし目上の者はお辞儀をしません。その格差が縮まっていると、目下のものが先にお辞儀をし目上の者はその後からお辞儀をします。では同じランクの者同士が出合った場合はどうでしょうか。その場合はお互い同士同時にお辞儀をするか、お辞儀をしないかのどちらかになります。仮にフランスでシラク大統領と市井の一市民が出会ったとしたらどうなるでしょうか。お互いに目を合わせて対等に握手するはずです。アイ・コンタクトといって相手の目を見て歓迎や感謝の気持ちなどを伝え合うのです。又別の例を挙げますと、あるフランス人が「私はTGV(テージェーヴェー、フランスの新幹線)に乗るのが楽しくて仕方がない。いつも会話に花が咲き、降りてしまえば関係がなくなってしまう場合も有りますが、多くの場合お互いに友人になり、あるいは恋人同士の関係になるケースも有ります。ところが日本では、私が外国人だからといって遠慮しているわけでもなく、日本人同士でも決して話をしません。有る人は新聞や雑誌を読み、ある人は居眠りをし、仕事をしている人さえいます。」と驚いて感想を述べています。日本人一般の非社交性の典型例でしょう。話しはやや脱線しますが、私が社交家として今までいろいろな所を覗いてみて、例えば趣味の世界で一番非社交的な所はどこかと言えば社交ダンスの人たちです。次に話し方教室の人間、三番目はコーラスグループの連中でしょうか。本来人とうまくやっていかなければ成り立たないはず世界の人たちが逆に最も社交性に欠ける人間だとは、何とも皮肉な話です。それからパーティーや宴席で、一つのグループとして同時に共通の話をせず、横隣り(よこどなり)と、距離が近ければ真正面の相手ぐらいとしかおのおの勝手な言葉しか交わさないのが大方の日本人の実態でしょう。他の人に対する配慮がないのです。これは座敷から椅子に座る席が平行移動したに過ぎません。フランスにはコンヴィヴィアリテ( la convivialite) と言う言葉があり、これは食事時などにみんなが仲良く話しながら楽しく食事を取る時の「配慮」ないしはそのような気持ちが和む暖かな「雰囲気」を言います。フランス料理といえば何か格式ばって高級なものを食べると言うイメージがあるが、それは違う、むしろそのような習慣・マナーの方がずっと大事だとフランス人自身が言っているのです。夏目漱石が「現代日本の開化」の中で日本社会の「御維新後の現状」を西洋と比べて内発的文化と外発的文化の差と看破したように、日常生活の何んでもない事の中にも実は大変な違いがあるのです。私時々小さなサロン(ふうの会)を開くのですが、このような「旧来の陋習」とも言えるマナーの悪さはコントロールすること自体不可能です。私は自分の体験から、一般的日本人の二大欠陥として、「社交性の欠如」と「会話の貧困」を指摘するのですが、残念ながら多くの人がその様な自分自身の姿に気付いていないのが現状です。次に古くて新しい問題、「人間性の疎外」が挙げられます。ヘーゲルからマルクスにいたり現在においても解決する事の出来ない問題として論ぜられている事は、賢明な読者諸兄の承知する所でしょう。多くの現代人は、例えば自分の職業に生きがいを見出せなくなり、アイデンティティーの拠り所もなく、広い社会との連帯感情も失われがちになっています。また、マスコミによる画一的な情報や低俗で営利本位の娯楽は、社会人しての個人の意識を退廃させています。大衆社会の中に埋没しがちな個人は、本当の人間的喜びをもたらさない「大衆社会的状況」に順応する事を余儀なくさせられています。「群衆の中の孤独」これが現代社会のキーワードであり、ソウル・スタインバーグの言うとおり、「バーの止まり木に座っている男たちに孤独と虚無のシンボルを見出す。」というやつです。例えば、青少年の重大問題である、引きこもり・学級崩壊・凶悪犯罪の横行等には、共通の根、即ち正常な人間関係を作れないと言うコミュニケーションの問題が有ります。つまりコミュニケーションそのものの危機が切迫して存在していると言う事です。ちなみに評論家の堺屋太一氏はインターネットで同じ趣味の者同志が結ばれる「好縁社会」の実現を伝々しているようですが、私に言わせれば地に足が立たない、血の通わない人間関係など真っ平であり、ましてや同じ趣味の持ち主達だけに取り囲まれる事など考えるだけでゾッとするほど恐ろしい事です。今まで述べてきましたように、以上のような問題を解決することは大変難しく、人格の尊厳・個性の完成・社会的連帯など民主主義の諸原則を再確認する事から始めるしかないでしょう。

特に昨今は経済的社会的国際的に激動期にあり、今までの行動パターン・思考構造を改革し、また改革しなければやっていけない所まで来ているのです。二三例を挙げて見ましょう。核家族化という言葉が使われだしたのはもう随分前の事ですが、日本で現在合計特殊出生率から見て、一人の女性が一生の間に子供を産む数は平成 15 年度で1.25人であり、東京都下23区に至っては既に1を切っている区部もあり、関係者によれば公園から子供の遊び声が聞こえなくなったとの事。またそれどころか結婚すらしようとしない人が急速に増えているのです。皆さんの周りを見渡してみてもそんな人がゴロゴロ居ることにお気付きでしょう。いまや核家族化を通り越して、大げさに言えば「家族の崩壊」すら懸念せざるを得ない所まで来ているのです。でも親が居るじゃないかと言う声も有るでしょう。親は自分より先に死にます。それが自然の摂理と言うものです。例え子供を愛情込めて育て上げたとしても、子供は親に何をしてくれるのでしょうか。それでは会社はどうでしょうか。終身雇用制はとっくに崩れ去り、何時リストラされるかと言う不安を抱えて仕事をしなければなりません。いやそれどころか会社そのものがつぶれてしまうかもしれない今日この頃なのです。無事に勤め上げたとしても、止めてしまえばもう同じ会社の人たちとは付き合えません。会社とはそういう所なのです。では日本特有の文化であるところのいわゆる「同好会」はどうでしょう。此処ではある特定の趣味を持った人達が集まるだけなので、人間としての幅を広げる事が出来ず、会話もその趣味を通じての上滑りのものになってしまいがちです。

以上のことを踏まえれば、時間は掛かっても根気よく信じるに足る友を一人でも多く作り、そのコミュニケーションの為のネットワークを作る事しかないようです。ネットワーキングと言う言葉も既にあります。そうすれば複数の友人と何時でも会話を楽しむ事が出来お互いに励ましあい、慰めあう事が出来るのです。いざとなれば力を貸してもらえる事もあるでしょう。しかしそうする為には五つほどの前提があるのです。それは「社交の精神」・「ホスピタリティー」・「レスペクト・アザーズ」・「パブリック・スピーキング」・「パートナーシップ」を身に着けることです。社交の第一法則は「人を喜ばせる事」です。ホスピタリティーとは相手を受け入れもてなそうとする気持ち・態度の事です。レスペクト・アザーズとは、社会生活を送る「良き市民」として人に接する時の最低必要な条件です。「つまり相手に人間としての尊厳を見出し尊ぶ。相手に過不足の無い関心を払い、その人に心配りをする。決めた事や約束を守る。此れを実行する事がよき市民である。」という事です。パブリック・スピーキングとは、相手と意見や考え方が違うから避けるのではなく、それ故にこそ話し合うと言う、ゆとりを持った大人の会話です。パートナーシップとは個人と個人、あるいは個人と団体が、お互いに信頼関係を築くことです。これらの価値観をしっかり身につけ、その上で初めて「会話」が始まるのです。その会話も「人前で体裁をとる」「出る杭打たれないように」と言った従来のやり方ではお話になりません。偉ぶらず卑屈にもならず、どんなに社会的地位の高い肩書きを持った人の前でも、人間として対等な態度で口を利かなければなりません。そしてこれからは立派に自己紹介が出来る事、人を紹介する事が出来ること、知らない人とも話が出来る事、自分の意見を持ちそれを人前で論理的に堂々と開陳できる事、そして排他的にならず相手の意見にも耳を傾け相互理解が出来る事等、日本の国だけでしか通用しない今までの「ナショナルスタンダード」から「インターナショナルスタンダード」に話し方を切り替える事が必要なのです。会話・ディアローグ(対話)・ディスカッション(討論・議論)の重要性を再確認してみましょう。私は自分の趣味は何かと聞かれた時、いつも「会話」と答えています。アンシャンレジウムの頃のフランスでは、男女が恋をしている事を、「今二人は会話中だ。」と言っていました。現代フランスの旅行案内書には、「黙っているぐらいなら反対意見を言ったほうがましだ。」と書かれています。議論をするという事は、皆それぞれに意見を持っている事が必要であり、意見を持つ為には当たり前の事ですがまず物を考えなければなりません。物を考える為には、自分のおかれている社会に関心を持ち、そこから考える為の材料を取捨選択して己が物としなければなりません。ですから逆に議論の希薄な社会では人間畢竟愚鈍になる、と言うのが私の考えです。シャンシャン手拍子の株主総会のような自分たちの自己満足のための集会が日本には余りにも多過ぎます。初めから決まっている答えをお互いにソウダソウダと言い合ってうなずい頷いている光景は、オナニーの(失礼!)集合体のようにも見えます。もっと各々の「正論」をぶつけ合いましょう!それからあえて申しますが、例えば自分に自信が無いので言葉だけ取り繕って他の人に良く見てもらおうと思って「話し方教室」に通っている人が居るとしたら、それは実に甘い考えです。世の中はそんなに甘くはありません。どんなにうまく話したとしても相手はあなた自身の人格をすぐに見破ります。誠実さ、優しさ、正義感、同情心を持ち合わせているかどうか、相手を尊重しているか否か、エゴイストであるかないか、つまり話す事よりも先に貴方の人格が問われるのです。人格を陶冶する事、幅広く教養を積む事、特に時事問題に詳しい事。間接的過ぎると思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし上記に述べたことを積極的に試みる事こそ、他の人たちに好感を持ってもらえる前提であり、第一条件なのです。基礎や土台の無い所に家が建たないのと同じ事です。それからよく司会がどうの、会社での報告の仕方がどうのと言われますが、私にしてみればそれらは枝葉末節な瑣事にすぎません。司会などはケースバイケースで変わるわけですから、一つだけの方法で此れが良いと言うものは無いのです。それには時々に応じた臨機応変が求められます。コモン・センス(良識)と適当な教養さえあれば、別にわざわざその為の「術」なるものを学ぶ必要もありません。それから本当に話し方やコミュニケーションの仕方を学びたいのであれば、いわゆる「話し方教室」なるものに通ったり、曰くハウ・ツー本見るだけでは不十分です。論理学・修辞学(レトリック)・雄弁術を勉強する必要があるでしょう。昔、早稲田大学に「大日本雄弁会」と言うものが有りました。そこではデモステネスの「フィリッピクス」、マーカス・アントニーの「ローマ市民に告ぐ」、スパルタカスの「スパルタは死したるか」、ロベスピエールの「おおフランス人よ!」、リンカーンの「ゲチスバーグ追悼演説」などが勉強されていたのです。特にスパルタカス(古代ローマの剣闘士の一人り)の「スパルタは死したるか」は胸を打つものが有ります。それに話はただだらだらと長ければ良いと言うものでもありません。人生のさまざまな局面において、寸鉄人を刺す、自分の立場・心情を短い言葉で端的に表す事も必要なのです。このようないわゆるキメ言葉(人生の重大局面で発する名言)のいくつかを例としてあげてみましょう。何といっても古典的名言はけいかの「風しょうしょうとして易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず。」でしょう。「ブルータスよお前もか!」ジュリアス・シーザー、「そこに山が有るから」登山家ジョージ・マロリー、「芸術は爆発だ!!」岡本太郎、「言葉って素晴らしい!!」コロンビア・ライト、「 I shall return! 」ダグラス・マッカーサー、「老兵は死なず、ただ去り行くのみ。」ダグラス・マッカーサー、「もし、この兄が自由を傷つけたなら、この胸を突き刺す事を誓う!」リュシアン・ボナパルト(ナポレオンの弟)、「俺はかませ犬じゃない!」プロレスラー長州力、など挙げていけば限が無いほどです。もし挙げる事が許されるのなら、昨今の拉致問題で蓮池透氏が怒りの余り発した「外務省は敵だ!」の発言も立派にこの範疇に入るでしょう。人間必要な事を声を大にして言わなければならない時があるのです。一つ一つについて説明しなければなりませんが、紙葉が足りません。過去、薬害エイズ問題でミドリ十字の社員達が川田良平君(当時)のご母堂の前で、社長以下土下座して謝った時に、彼女が言い放った言葉、「汝ら土下座したとて許さるると思う事なかれ!」もこの種の名言のうちに入るでしょう。母の愛の力が有ればこそだったのです。「愛語」と言う言葉も有ります。全ての言葉は「愛」すなわちヒューマニズム発っし、ヒューマニズム帰すべきものなのです。

最後にフリードリッヒ・ニーチェの「高貴とは何か」より幾つか抜書きしておきましょう。
「”我々真実なるもの”。古代ギリシャの貴族たちは自らをこう呼んだ。道徳的な価値表示はいつでもまず人間に対して付けられ、それが派生的に転用されていった末に、ようやく行為に対して付けられるようになった事は明らかだ。」 「およそ人を賞賛するに当たって、いつもその者の自分と一致しない点だけを賞賛するという事は、一種の優雅であるとともに、高貴な自己制御である。そうでないと時には、実は自分を自己自身を賞賛しているものと言うべきで、此れはよき趣味に反するものだ。」。

 

 

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